ラベル

2012年5月23日水曜日

神社仏閣

神社仏閣に興味をもったのは幼い日の記憶である。
他に子供心に惹かれたものは教会や古い洋館、日本の古民家と
云われるもの等でそれは今も変わらず永延と続き今日に至っている。

建物はいざ知らずこちらは、神社仏閣について触れる場でありますので宗教としての神道神社であり、宗教としての仏教仏閣という観点から記すことに致しましょう。

一つの宗教から歴史、建物、絵画、彫刻、石膏、器・・・
更に伝説、民話、おとぎ話、邦楽、舞踊と広がります。

宗教の内容からは教義、社会、人物、そしてこられは縦横に繋がり、係わり合いを持ち、あるいは比較学にまで及ぶことになると推測できます。
今、このようなことを踏まえつつ各多々あるブログ(room)の必要性を認識したに過ぎません。
こちらのroomは宗教であり、宗教としての社会との係わり、
人々の心を惹き付け、歴史に残ってきたものその内容から新たな疑問が生じることを懸念しつつ絞っていきたいと考えております。

いうまでもなく専門書は数多ある中から
読書しつつ学びつつ、素朴な疑問から難解な疑問まで
思いつくまま書いてまいりたいと存じます。

内容によりましては、宗教哲学の分野になったり、あるいは
宗教社会学、宗教現象学・・・
脱線する可能性が大であると懸念しつつ・・・整理致しましょう。

それでも良いのです。何故ならこのroomは、資料室なのですから資料が間違えて他のroomに収められたら入れなおしたらよいのです。
何故・・・こちらか何故あちらだったのか?と時間の無駄のようでもありそこから新たな一つの発見に繋がる可能性もあり得るのです。

では、この辺で・・・

2012年3月10日土曜日

宗教哲学について・・・続き

日付が開きましたが、記します。
前回のアトレーユさんからのご質問とそれに対する
私からのコメントです。
以下

2/17 00:24
> [ 72 ] ジョルジュ・サンドさん
●ラッセル以外は初耳です。(笑)

ドイツ観念論哲学は、特に宗教について論じているわけではありませんが(ヘーゲルの「宗教哲学を除けば)、結局のところ、神学の内部における哲学、という意味でやはり神学の範疇である気がします。
特に、シェリング、ヘーゲルなどは「キリスト教哲学」と言っても良いような気がします。

まあ結局のところ、近代ヨーロッパにおいては、
文化全般がまだキリスト教的世界観の手のひらの内にあったということだと思うんですけどね。

●返信
 76 ]

2/17 06:24
> [ 73 ] アトレーユさん
おはようございます。
単純に 答えはいつもシンプルなものです。
おそらくアトレーユさんが書かれたように「神学」の分野にも入りますし、「キリスト教哲学」とあえて言うならばその分野にも入るかと思います。
「神学」「キリスト教哲学」についての文献を探したとしたら
その中に含まれるかと存じます。

「宗教哲学」のなかにも含まれると思います。
あくまでもそれに対して、論考すればそれになるからです。
「宗教哲学」の専門書は少ないのも事実です。
学問を深く研究することも出来ない環境圏でございましたが、
知れば知るほどおそらくは謙虚にならざる得ないものに直面するのではないかと確信しております。
「知れば知るほど」と言う言葉を叉、別の言葉に置き換えることもできるかと思います。
77 ]
2/17 08:19
> [ 76 ] ジョルジュ・サンドさん
● >おそらくアトレーユさんが書かれたように「神学」の分野にも入りますし、「キリスト教哲学」とあえて言うならばその分野にも入るかと思います。
「神学」「キリスト教哲学」についての文献を探したとしたら
その中に含まれるかと存じます。
「宗教哲学」のなかにも含まれると思います。
あくまでもそれに対して、論考すればそれになるからです。
「宗教哲学」の専門書は少ないのも事実です。
すいません、この文章の主語は何ですか?ドイツ観念論?それとも、ジョルジュ・サンドさんが当時読まれていた文献がそうだということでしょうか?
[ 78 ]

●返信
2/17 08:48
> [ 77 ] アトレーユさん
アトレーユさんが書かれた
>ドイツ観念論哲学は、特に宗教について論じているわけではありませんが(ヘーゲルの「宗教哲学を除けば)、結局のところ、神学の内部における哲学、という意味でやはり神学の範疇である気がします。
特に、シェリング、ヘーゲルなどは「キリスト教哲学」と言っても良いような気がします。

に対してのコメントです。

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こちらは
私の備忘録であると同時に一視点でもあります。
つい最近引越しを致しまして、上記の書物が出て参りました。
懐かしくまた、その当時の私が学問に燃えておりました時期
でもございます。
それがいまだに尾をひいております。(苦笑)
様々な方とのホンの少しの語らいも新鮮な気持ちへと
導かれます。アトレーユさんありがとうございました。

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2012年2月16日木曜日

宗教哲学とは・・・

●アメブロ「アトレーユ」さんからの質問について

宗教哲学というと名前がシュライエルマッハーぐらいしか思い浮かばないんですが、 例えばどういう名が出て来ますか?
カントからフィヒテ、シェリングを経てヘーゲルに到るドイツ観念論哲学なども入りますか?
ドイツ観念論哲学は、神学とも大差無いように思うのですが、 神学と宗教哲学とはまた別なのでしょうか。
神学と言えば、聖アウグスティヌスや聖トマス、オッカムなどが出て来ますね。


●返信

今日までこのページ開いておりませんで、大変失礼致しました 。 

宗教哲学から?十年間隔がございます。若かりし頃真理の追究からはじまりました。 諸々の説明は省きますね。
ジョン・ヒック イギリスの宗教哲学者 神学者です。
彼の著作を翻訳された方が間瀬啓允先生です。
「神は多くの名前を持つ」・・・懐かしいです。もちろんこれだけではございません。

哲学ですから宗教とは何か?からはじまり人により違いますが、 宗教社会学 宗教現象学等・・・色々と関わって参ります。 諸々の宗教についての考察でもあります。
ドイツ観念論も宗教について論ずれは宗教哲学に入るかと思います。

この頃 私が一番感じたことは言葉の統一性が必要であることでした。
(言葉の位置づけ 捉え方等)分析言語学 記号論理学 にも関連して参ります。
ラッセルの「パラドックス」 ラッセルの宗教批判など論理学はもちろん神学 仏教学 等 突き詰めて思考と考察することが宗教哲学といえるのではないでしょうか。
今日はここまでに致します。
慌てて書かせて頂きましたが、細切れの内容であったとしても、 積み重ねることにより徐々に理解していただけるかと存じます。

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基本的に宗教哲学の分野でございました。
アメブロのぐるっぽ「思想家の集い」での自己紹介に書きましたところ 質問が「雑談」のカテゴリーに入りました。 それに対する返信です。とても大雑把な返信ですが、お許し下さいませ。
私の勉強にもなりますので、備忘録として更新致します。
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2011年2月4日金曜日

「絶対無」なるもの・・・意識の謎宮

「有」が在るから「無」がある。
「無」か在るから「有」がある。

あるから言葉が存在する。
そもそも「無」とはどこから生まれた言葉なのか。
「絶対無」とは神存在以前
「絶対無」とは神オンリーの世界
「絶対無」とは宇宙空間

神は存在したか。神は存在しないか。
そもそも「神」とはどこから生まれた言葉なのか。

「言葉」それ自体どこから来たのか。
「はじめに言葉が在った。言葉は私である。」・・・聖書より

何故神が存在すると思うのか。
存在するから意識の中に生まれる。
存在するから意識の中で問う。
問うことそれ自体・・・在るから。
存在するから存在するのである。
「私は在って在るもの」聖書より・・・

「絶対無」とは・・・
この言葉から何と果てしない空間が生まれるのであろう。
この言葉から何と「絶対無」の存在を知るのであろう。

解明と開明は人間の自力のみで理解出来るのであろうか。
見えない「絶対無」を・・・
見えない「宇宙空間」を・・・
見えない「神」を・・・

では・・「0」とは・・・



(詩集 花掬びより)

2010年10月17日日曜日

インマヌエル・カント

私は、あなたの存在をうっかりと忘れておりました。
あれだけ夢中になったのに^^「純粋理性批判」理路整然としておりました。ムニャモニャした時に
カントを読んで脳内をスッキリさせたものです。
いつも散歩の時間は同じ。カントを見かけますと、今の時間かが分かったというエピソードをお持ちのあなた。
今の私は、貴方様に肖らなくてはならないほどいい加減な毎日でございます。
今後は改めて・・・・等と考えたくもございません。
では、続きはまたの機会に・・・・

同一内容

世界中にある数多い宗教の中から類似点を探りたいと思っている。
世界三大宗教に焦点を当て試みることにする。